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『振り返れば奴がいる』司馬江太郎を読む ── 未解決の悲嘆と、“助からない命”へのまなざし

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『振り返れば奴がいる』司馬江太郎を読む ── 未解決の悲嘆と、“助からない命”へのまなざし


振り返れば奴がいる

本記事は、『振り返れば奴がいる』に登場する、織田裕二さん演じる「司馬江太郎」の冷徹さを、心理学的な概念を手がかりに読み解く試みである。筆者は医療従事者ではなく、あくまで一視聴者として、ドラマ内の描写をもとにフィクションの人物を考察するものであり、医療・心理に関する専門的判断を示すものではない。ひとつの個人的な考察として受け取っていただければ幸いである。


司馬江太郎は、本当に冷酷な医師だったのか


『振り返れば奴がいる』の司馬江太郎は、冷酷な医師に見える。

助からない命を前にしたとき、情緒に寄りかからない。
延命に対しても、強い拒否感を示す。
心拍が戻った患者を前にしても、
「いまさら息を吹き返しても、脳が死んでいるんだ」と言い、
モニターのスイッチを切る。

その姿勢は、ときに冷酷と見えるほど鋭い。

しかし、司馬の冷徹さを、
単なる性格の悪さや医師としての傲慢さだけで片づけると、
おそらく見落とすものがある。

司馬江太郎は、
子どもの頃に父を膵臓がんで亡くしている。
しかも父は、植物人間状態となり、
長い間寝たきりだった。

つまり司馬は、
父がある日突然いなくなったのではなく、
父が少しずつ“父ではなくなっていく時間”を、
子どもの頃に見続けたことになる。

身体はそこにある。
けれど、応答はない。
そして医療は、父を父として取り戻すことはできない。

この経験が、司馬の医療観に深い影を
落としているように見える。


父を失った子どもの声


劇中で、患者の家族が病室に到着した場面で、
司馬の脳裏に子どもの頃の自分の声が蘇る。

「お父さん、お父さん」

その声が何度も反復される。

この演出は重要である。

司馬は、目の前の患者とその家族を見ている。
しかし同時に、
父を失った子どもの頃の自分にも戻っている。

つまり、現在の患者の死と、
過去の父の死が、司馬の中で重なっている。

これは心理学的に言えば、
未解決の悲嘆、あるいは未完了の喪失体験が、
現実の医療判断の場面で
再活性化している状態として読むことができる。

司馬にとって、
「脳が死んでいる」「植物状態」「助からない患者」は、
父の死を想起させる強いトリガーでもある。

ここに、司馬江太郎という医師の危うさがある。


無力だった子どもが、決定権を持つ医師になる


医師になった司馬は、
死に向かう身体を前にして、判断する側に立つ。

助かる可能性があるのか。
もう救えないのか。
延命は救命なのか。
それとも苦痛の延長なのか。

無力だった子どもが、今度は決定権を持つ医師になる。

この反転は、精神分析的には、
反復強迫に近い構造
として読むこともできる。

過去にどうすることもできなかった父の死。
その無力感を、司馬は医療現場で何度も反復している。
ただし、それは癒しとしての反復ではない。
未消化のまま、支配や切断として繰り返されている。

だから司馬は、
助からない患者を前にしたとき、
苦しみや悲しみに触れるよりも先に、判断へ移る。

「助からない」
「脳が死んでいる」
「これ以上は意味がない」

そうした言葉で、死に向かう身体を裁定する。

そこに、司馬の冷徹さの一部があるように思う。


知性化 ── 悲しみを医学的判断へ変換する


司馬は、悲しみを悲しみとして語らない。

「かわいそうだ」
「父を思い出してつらい」
「死に向かう人を見るのが耐えられない」

そんな言葉は口にしない。

その代わりに、司馬は医学的な言葉を使う。

「脳が死んでいる」
「助からない」
「無駄だ」
「苦しんでるんだよ」

本来なら強い感情を伴う出来事を、
理屈や知識、専門的判断によって処理し、
感情から距離を取る。

これは、防衛機制としての知性化に近い。

もちろん、医療現場では
医学的判断そのものが必要である。
感情だけで治療方針を決めることはできない。

ただし、司馬の場合、その判断があまりにも急で、硬い。
患者本人や家族、医療チームが
その死を受け止める時間を待たず、
医学的合理性へ一気に飛んでしまう。

司馬は、悲しみを
医学的判断の言葉へ変換することで、
感情から距離を取っているように見える。

そうしなければ、
自分自身が崩れてしまうのかもしれない。


感情の隔離 ── 事実は見えているのに、感情が接続しない


もうひとつ、司馬の姿から見えるのが、
感情の隔離である。

感情の隔離とは、
出来事の内容は認識しているのに、
それに伴う感情が切り離されている状態を指す。

司馬は、死や重篤な状態について、かなり冷静に見ている。
患者が助かるのか、助からないのか。
延命に意味があるのか。
脳機能が戻る可能性があるのか。

そうした事実認識は鋭い。

しかし、そこに通常伴うはずの
悲しみ、ためらい、家族への配慮、看取りの時間が、
ほとんど表に出ない。

事実認識はある。
けれど、感情が接続していない。

司馬の冷たさは、
感情がないからではないのかもしれない。
むしろ、感情に触れると崩れてしまうために、
感情を切り離しているように見える。

父の死にまつわる感情があまりに大きいからこそ、
同じ種類の場面に直面すると、
事実だけで処理しようとするのかもしれない。

司馬の冷徹さは、
感情の欠如ではなく、
感情の遮断なのではないか。

そう読むと、この人物の見え方は少し変わってくる。


「生きること」と「死なないこと」は違う


司馬は、延命に対して強い嫌悪を示す。

彼は、ある場面で言う。

「死なせない方法なら、いくらでもある」
「でもな、生きることと、死なないってことは、違うんだ」


この台詞には、司馬江太郎の医療観が凝縮されている。

人工呼吸器。
血圧管理。
チューブ。
意識のない身体。

医療は、生命活動を維持し、
死に至るまでの時間を延ばすことができる。
けれど、その時間がその人にとって「生きること」なのかは、
医学的判断だけでは決められない。

司馬は、その境界を、冷酷なほど明確に切り分ける。

彼は命を軽んじているわけではない。
むしろ、医療が“死なない身体”を作ることと、
その人が“生きている”ことを
混同する態度に、強い拒否感を持っている。

子どもの頃の司馬は、
父の身体がそこにありながら、
父としての応答が失われていく時間を見続けた。
医療は父を死なせなかった。
しかし、父を取り戻すことはできなかった。

この背景があるからこそ、司馬は
「死なないこと」
「生きること」を同じものとして見られない。

振り返れば奴がいる

司馬の危うさはどこにあるのか


ここまで見ると、
司馬の判断には一定の合理性がある。

助からない命への延命の限界を考えること。
脳機能が不可逆的に失われた患者に対して、
どこまで治療を続けるのかを問うこと。
患者本人の苦痛を見ようとすること。

それ自体は、医療の中で避けられない問いである。

しかし、司馬の危うさは、
その医学的合理性そのものではない。

とくに死に関わる場面では、
何をするか。何をしないか。

それだけでなく、
誰と、どのように、
その判断に至るか。
そこが重要になる。

司馬は、この「どのように」の部分を待てない。

それは、本人の未解決の悲嘆が、
他者の悲嘆を待てなくしているからかもしれない。

医学的には正しいかもしれない判断が、
関係的には致命的に拙くなる。

ここに、司馬江太郎という医師の危うさがある。


冷酷な医師ではなく、未解決の悲嘆を抱えた医師として


司馬江太郎を、単に「冷酷な医師」と見ることは簡単である。
医師として、越えてはならない線に踏み込む場面もある。

しかし、その冷たさの奥には、
父を失った子どものまま止まっている
悲嘆があるように見える。

司馬の冷徹さは、単なる非情ではない。
未解決の悲嘆を知性化し、
医学的判断として処理しようとする防衛
の姿でもある。

だからこそ、助からない命を前にしたとき、
彼の判断はあまりにも鋭く、あまりにも早い。

その鋭さは、患者の苦痛を見抜く力でもある。
同時に、患者や家族、医療チームが死を
受け止めていく時間を切断してしまう危うさでもある。

司馬江太郎は、命を軽んじていたのではない。
むしろ、命が苦痛だけに変わっていく時間を、
子どもの頃に見てしまった医師だった。

だから彼は、
「死なないこと」を「生きること」
とは呼べなかった。

この人物の悲劇は、そこにあるのだと思う。



追記:ぼく自身、父を膵臓がんで亡くした経験がある。
そのため、司馬の父が膵臓がんで亡くなったという設定は、
他人事とは思えなかった。

また、終末期において本人の意思が明確に示されないまま、
家族が重い判断を迫られる場面があることも、
身をもって知っている。だからこそ、
司馬を単なる冷酷な医師としてだけ読むことができなかった。





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織田裕二さん演じる司馬江太郎と、石黒賢さん演じる石川玄。 命を救うとは何か、医師はどこまで踏み込めるのか。 『振り返れば奴がいる』は、90年代ドラマ特有の緊張感と、 医療の理想では割り切れない重さが刻まれた名作です。 冷酷に見える司馬の奥にあるものを、もう一度じっくり確かめたくなるDVD-BOXです。




  • この記事を書いた人
藤次郎Tojiro

Tojiro

子どもの頃、家でジャンプが出禁になっても、『銀牙』や藤子作品だけは読み続けていた。あの頃の“物語の匂い”が、ぼくの根っこをつくっている。 うつとの長い旅を経て、“こころの余白”の大切さを知った。いまはドラマ『相棒』「織田裕二さん」主演作品を中心に、気持ちの揺らぎや、語られない沈黙、痛みのレイヤーを、そっと読み解いている。原点の作品を行き来しながら、人が立ち上がっていく物語を、静かに追いかけています。

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