
「……来てるかな」
ふわり、春風に舞う、恋の花びら。
湖の風が、彼女の髪を揺らした。
突風に裾を押さえるその指先が、一瞬、ふるえた気がした。
その日ふたりが会ったのは、湖のほとり。 木々のざわめきと水音だけが響く、静かな春の午後だった。恋人たちの間では、知る人ぞ知る場所だ。他にも、同じような恋人たちが、静かに思い思いのときを過ごしていた。
彼女は巫女だった。仕事の性質上、週末は神社に詰めていることが多い。 ふたりがこうして会えるのは、ほんの限られた時間。 彼女の休み時間という短い時間だったが、彼は会いに来た。

この時間、この場所。 ふたりにとって、それは特別な意味を持っていた。
風がふわりと吹いて──彼女の装束の裾が舞った。
彼女は慌てて手を伸ばし、スカートを押さえた。 けれど、その一瞬、彼の目には……
──見えてしまったかもしれない。
彼は息を飲んだ。 見るつもりなど、毛頭なかった。 ただ、風のいたずらが生んだ、ほんの一瞬の出来事だった。
彼女の頬が、桜色に染まっている。 目は合わせず、口元もきゅっと引き結ばれていた。
彼女は、自分の仕草に不安を感じていた。 「見られたかもしれない」 「軽い女だと思われたかもしれない」 そんな思考が、胸の奥をぐるぐる🌀と回っていた。
でも彼は、なにも言わなかった。
見えてしまったことに、彼もまた、羞恥心を感じていた。 けれど、それはあくまで風のいたずらであり、 ふたりの関係を脅かすような出来事ではなかった。
──それだけで、いいじゃないか。
「……そろそろ、戻ろうか」
彼の声は、静かで、やさしかった。
彼女は、うなずいた。 風で乱れた髪を、そっと耳にかけて。
ふたりの足音に、湖面のさざなみが重なる。 さっきまでの沈黙は、気まずさではなく、 たぶん──思いやりのかたちだった。
見えてしまったことも。 見たかもしれないことも。
きっと、もういい。 だってそれは──春の風のいたずら。
ふたりの間に言葉はなかったけれど、 一瞬、ふわりと桜が舞って、 それが、すべての答えだった。
🌸風花、ふわり──映像詩版
映像詩版『風花、ふわり』がSoraで生まれました。
【はやく逢いたい…】彼女の声に、ふと胸がきゅんとなる。
──
やわらかな声と映像が、
ふたりの物語をそっと彩ります。