
『リーガルハイ』を見始めたら、『白い巨塔』が始まった
『リーガルハイ・スペシャル』を見始めたはずだった。
ところが、冒頭から流れてくるのは、
大病院の重々しい空気である。
「院長の総回診です」
白衣をまとった医師たちが、
病棟を練り歩く。
先頭に立つのは、東都総合病院の赤目院長。
医師たちを従えた行列。
漂う、権威と序列の空気。
あれ?
『リーガルハイ』を見ていたはずではなかったか。
間違えて『白い巨塔』を再生してしまったのか。
そう思ってしまうほど、
このスペシャルは明確に『白い巨塔』を想起させる。
ただし、『リーガルハイSP』は
単なる医療ドラマのパロディでは終わらない。
ここで描かれるのは、
医療過誤とは何か。
医師の説明義務とは何か。
患者は何を選ばされ、何を説明されたのか。
そして、
医療という科学が
背負ってきた“救えなかった命”を、
ぼくたちはどう受け止めるのか。
『白い巨塔』と『リーガルハイ』
どちらも医療裁判を扱っている。
しかし、そこで問われているものは、少し違う。
(今回は、『リーガルハイ・スペシャル2014』の医療過誤裁判を、『白い巨塔』との対比から読み直す長めの記事です)

『白い巨塔』は、患者に選ばせなかった医師の物語
『白い巨塔』の裁判で問題になったのは、
財前五郎の医学的判断そのものだけではない。
ここでは、唐沢寿明さんが財前五郎を演じた
2003年版ドラマ『白い巨塔』の判決言い渡し場面を確認し、
そこで読み上げられた
判決理由の要旨を手がかりにする。
財前の治療行為そのものについて、
「十分に平均的水準を上回るものであり、法的に責められるべきものではない」
とされている。
つまり、財前の医学的判断のすべてが、
過失と評価されたわけではない。
重要なのは、患者に対して、
手術以外の治療法を
検討する機会を与えなかった点である。
財前は、患者側から手術以外の方法について問われたとき、
「助かりたいなら手術しかない」
の一言で退けた。
治療法の選択は、医師がどの手技を選ぶかという問題にとどまらない。
患者がこれからどう生きるか。
どのようなリスクを引き受けるか。
残された時間をどう過ごすか。
それは、患者の人生に関わる問題である。
だからこそ、2003年版『白い巨塔』の判決は、
財前の医療技術そのものではなく、
患者への真摯な説明と、
それにもとづく同意を欠いた点を重く見ている。
赤目院長は最低だが、財前とは違う
一方、『リーガルハイ・スペシャル』に
登場する赤目院長も、
人間としてはかなりひどい。
患者の妻に対する態度は冷たい。
患者の名前すら間違える。
病院内では権威にあぐらをかいているように見える。
若い愛人を作り、権力と利益を追求する姿も強調される。
「医は仁術」という言葉から見れば、
赤目院長は最低の医師に見える。
しかし、法的に見たとき、
財前五郎とは大きく違う点がある。
赤目院長は、患者に投与した新薬について
「副作用のない薬というのはない」と説明している。
主治医も、日本では未承認であること、
強い薬であり
体へのダメージがあることを伝えている。
そのうえで赤目は、
「この薬が、他の薬と比べて、特別危険ということはない」
と述べる。
この説明は、当初は尊大な医師の強弁にも聞こえる。
しかし、後に古美門が法廷で示した赤目のレポートによって、
その説明には一定の根拠があったことが明らかになる。
赤目は、院長の職から更迭され、
死が目前に迫る状況でも、
未承認薬の投与後に患者がどうなったのかを、
海外の症例も含めて克明にまとめていた。
そのデータ上、この薬は他の薬と比較して、
特段リスクの高い薬ではなかった。
赤目は冷たい。
遺族への言葉もひどい。
しかし、少なくとも薬のリスクについて、
何も説明せずに押し切ったわけではない。
つまり、赤目は患者側を騙したのではない。
少なくとも劇中描写からは、
データに基づく事実を伝えていた、と読める。
加えて、妻が不安を口にしたときには、
薬をやめる選択肢も示している。
もちろん、その言い方は最悪である。
「元の木阿弥でいいなら。やめますか」
こんな言い方をされたら、家族は追い詰められる。
冷たい。
あまりにも冷たい。
しかし、少なくとも劇中で描かれる限り、
赤目院長は「この薬しかない」と断言して薬を強要しているわけではない。
ここが、『白い巨塔』の財前とは違う。
財前は、患者から治療法を選ぶ機会を奪った。
赤目は、態度は最低だが、
説明と同意の線は一応踏んでいる。
この違いは大きい。
医師の人間性が最低であることと、
医療過誤が成立することは、同じではない。
医は仁術か、医は科学か
裁判の中で、
原告代理人である弁護士・九條は
赤目の冷酷さを突く。
患者の名前を間違えた。
遺族に寄り添わなかった。
死んだらすぐにベッドを空けろと言った。
患者を数字やデータでしか見ていない。
その主張は、人間的にはよく分かる。
死亡率が1.3%だったとしても、
その1.3%に入ってしまった人にとっては、
100%の死である。
遺族にとっては、
たった一つの人生の喪失である。
だから、九條は叫ぶ。
命を数字で見るな。
患者には人生がある。
それを見ようとしない医師は、医師失格ではないか。
これは、「医は仁術」
という側から見た正しさである。
しかし、古美門研介は別の角度から切り込む。
赤目は、人間としては最低かもしれない。
だが、彼は倒れる直前まで新薬のデータをまとめていた。
病院を追われ、家族からも見放され、それでも研究を続けていた。
古美門は、赤目の姿をこう読む。
「医は科学である」
医学を前に進めるために必要なのは、遺族と一緒に泣くことではない。
次の患者を診ること。
データを積み重ねること。
科学を進めること。
血も涙も、とっくに捨てた。
その代わりに、赤目は科学に殉じた。
そう見ることもできる。
「科学を訴えろ」という冷酷な本質
この回で最も重いのは、古美門の最終弁論である。
進歩と引き換えに犠牲を要求してきたのが科学だ。
現代の医療は、救えなかった命の積み重ねの上に成り立っている。
誰しも医療の進歩の恩恵は受けたい。
しかし、その犠牲が自分や家族のものだと分かった途端に、人は言う。
話が違う。
なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。
誰のせいだ。
誰が悪いのか。
誰を吊るし上げればいいのか。
そして古美門は言う。
訴えたいなら、科学を訴えろ。
あなたの夫を救えなかったのは、現代の科学だ。
これは、あまりにも冷酷な言葉である。
遺族の前で言うには、残酷すぎる。
亡くなった人を「医学の進歩のための犠牲」と言われて、
納得できるはずがない。
患者は、医学の進歩に貢献するために治療を受けているわけではない。
ただ、助かりたいから治療を受ける。
大切な人に生きてほしいから、治療を受けさせる。
その意味で、古美門の言葉は冷たい。
しかし、その冷たさの中に、見たくない事実がある。
医療は魔法ではない。
科学である。
科学である以上、未知がある。
限界がある。
失敗がある。
副作用がある。
救えない命がある。
その救えなかった命の記録によって、次の治療が前に進む。
この事実は、遺族の悲しみを消すものではない。
しかし、遺族の悲しみだけで医療過誤を認定することもできない。
感情と事実は、分けて考えなければならない。
とても難しい。
けれど、分けなければならない。
専門性は求められる。だが、結果が望み通りでなかった瞬間に吊るし上げられる
近年、エッセンシャルワーカーの待遇をもっと改善すべきだ、
という声をよく聞く。
医療、介護、保育、物流、清掃。
社会を支える仕事の多くが、十分に報われていない。
その指摘はもっともである。
しかし、自分がそのサービスを受ける側になると、話は急に変わる。
医療費は高い。
介護費用は重い。
相談だけでお金がかかるのか。
もっと安くならないのか。
社会としては「必要な仕事にはもっと対価を払うべきだ」
と言いながら、個人として支払う場面になると、
その対価を値切ろうとする。
これは、ぼく自身、法務の職に従事していたときにも
何度も感じた矛盾だった。
たとえば、相談業務は、ただ話を聞くだけではない。
制度を知る。
リスクを読む。
書類や手続きの先に起こりうる問題を考える。
その蓄積に対して、対価が発生する。
しかし、必要としている人ほど、
その価値が見えなくなることがある。
医療でも、法律でも、専門性は求められる。
けれど、結果が思い通りでなかったとき、
人は誰かを責めたくなる。
誰が悪いのか。
誰を吊るし上げればいいのか。
古美門の言葉は、医療の話をしているようで、
専門性そのものに向けられている。
恩恵は受けたい。
リスクは引き受けたくない。
専門性は必要だ。
しかし、対価や限界は見たくない。
その矛盾を、『リーガルハイ』は笑いながら突きつけてくる。
感情と事実を分けることの難しさ
感情としては、夫を返してほしい。
誰かに責任を取ってほしい。
納得できない。
その感情は当然である。
大切な人を失った遺族に向かって、
数字や統計だけを差し出しても、心が追いつくはずがない。
一方で、事実として、
薬が特別に危険だったとは言えず、
説明と同意があり、
医学的判断としても誤りとは言えないなら、
医療過誤とは認めにくい。
この切り分けは、とても難しい。
だからこそ、法律がある。
裁判がある。
そして、古美門研介のような最低の弁護士がいる。
古美門は優しくない。
寄り添わない。
慰めない。
言い方も最悪である。
だが、その言葉は、
こちらの見たくない本質を突いてくる。
『白い巨塔』は、
患者に選ばせなかった医師の物語だった。
『リーガルハイ・スペシャル』は、
科学の限界を誰に背負わせるのかという物語だった。
どちらも医療裁判を扱っている。
しかし、問うているものは違う。
そして『リーガルハイ』は、
法廷コメディの顔をしながら、
医療という科学の残酷さと、専門性を求める社会の矛盾を、
こちらに突きつけてくる。
ひどい。
重い。
でも、目をそらせない。
📦 笑っていたはずなのに、最後は「命」と「科学」に黙らされる。