
『室井慎次 敗れざる者/生き続ける者』が描いた、未完の約束の続き
『踊る大捜査線』のTVシリーズで、
青島俊作は室井慎次に言った。
「現場の刑事は、あなたに期待してます」
室井は、短く答えた。
「わかった」
何をどう変えるのか、
その答えはまだ見えていなかった。
それでも室井は、現場から向けられた期待を、
自分の問題として引き受けた。
あれから長い時間が過ぎた。
室井は警察組織の中で上を目指し、
現場と本店の関係を変えようとしてきた。
しかし、2024年に公開された
『室井慎次 敗れざる者/生き続ける者』で、
警察官の職を辞し、
秋田に戻っていることが明らかになった。
かつて抱いた警察機構の改革は、
警察庁長官の命により、
組織改革審議委員会の解散という憂き目に合い、終焉を迎えた。
では、室井は敗れたのだろうか。
青島との約束は、果たされなかったのだろうか。
この二部作が描いたのは、
警察を離れた室井が、
秋田で子どもたちと暮らし、彼らに何を残したのか。
そこに、室井慎次の「わかった」の続きがある。
警察を辞めた室井慎次
室井は、秋田の山奥で暮らしている。
携帯電話の電波も届かず、
コンビニもない。買い物は、もっぱら小さな個人商店だ。
かつて湾岸署の大会議室に立ち、
数多くの捜査員を動かしていた室井が、
今は畑を耕し、食事を作り、
子どもたちの帰りを待っている。
そこには、彼なりの新しい「現場」があった。
室井と暮らしているのは、タカとリク。
二人とも、犯罪被害者であり、
犯罪によって人生を変えられてきた。
タカは、母親を殺された過去をもつ。
亡き母親はタカに勉強を教え、
大学進学も勧めていた。
本を読むことが好きで、とりわけハードSFを好む。
室井との生活から、大学への進学を考え、
警察官になることを目指して、東大の赤本を使って勉強している。
古本屋では、タカの蔵書には絶版本があり、
店主を驚かせるほどの読書家でもある。
一方、リクは、
生まれてすぐ母親が家を出て、
父親から虐待を受けていた。
室井家にやってきても、
来客があると押し入れに隠れてしまい、
学校にも通っていない。
背中には、虐待の痕が残っている。
それでもリクは、ある日、自分から言う。
「学校いく」
室井は、二人に人生の答えを与えようとはしない。
警察官になれとも、大学へ行けとも言わない。
過去を忘れろとも、親を許せとも言わない。
ただ、食事を用意し、帰る場所を守り、
彼らが自分で選ぶのを待っている。
それは、命令によって人を動かしてきた
かつての室井とは、まったく違う姿だった。
室井は、子どもたちを急かさない
室井の子どもたちへの向き合い方には、一貫したものがある。
怒鳴らない。
無理に聞き出さない。
答えを押しつけない。
そして、待つ。
警察官だった頃の室井は、
限られた時間の中で判断し、命令を出し、
組織を動かさなければならなかった。
だが、秋田での室井は、
人が変わるまでの時間を支配しようとしない。
リクが「学校いく」と言うまで待つ。
タカが自分の将来を選ぶまで見守る。
彼らが過去について話さなくても、
無理に言葉を求めない。
室井が子どもたちに与えたのは、
自分の意思を持ってもいい
自分で進む道を選んでもいい
失敗しても、帰ってきていい
そう思える場所だったのではないか。
日向杏という少女
そこへ、一人の少女が現れる。
室井家の車庫で倒れていた、日向杏。
彼女は、室井家の生活の中へ入り込み、料理を作る。
男所帯だった中で、
トマトケチャップでハートマークを描いたオムレツを作り、
ぎこちなかった食卓の空気を和ませていく。
杏の明るさや料理は、一見すると、
家族の中へ自然に溶け込んでいるようにも見える。
しかし、彼女は心の奥に、
強い孤独と危うさを抱えている。
杏の母親は、日向真奈美。
『踊る大捜査線 THE MOVIE 湾岸署史上最悪の3日間!』に登場した、
猟奇殺人犯である。
無期懲役が確定しながら、なお多くの信者を持つ人物。
拘置所で出産した娘が、杏だった。
『踊る大捜査線』の映画史をたどるうえで、
日向真奈美は一つの起点である。
その娘が、室井の最後の物語へ現れた。
杏は、母親と同じ存在なのか。
母親の思想や犯罪を受け継ぐのか。
それとも、母親とは別の人生を選べるのか。
『室井慎次 敗れざる者/生き続ける者』は、
杏を単純な「犯罪者の娘」として扱わない。
彼女の中には、母親を求める気持ちがある。
同時に、母親に支配されたくないという気持ちもある。
手術用のメスを取り出し、
「ママに会いたくなっちゃった」と語る場面には、
その両方が表れているように思う。
母親を求めながら、
母親の危うさも自分の中に感じている。
杏自身も、自分が何者なのかを決めきれずにいる。
タカは、杏からの刃の受け取りを拒否した
タカは、室井家の表札”室井慎次のお家”を削る。
見ていた杏は手術用のメスを、
タカに渡そうとする。
(メスは、日向真奈美の象徴物だ)
だけど、タカは杏に対して
メスの受け取りを拒否する。
怒鳴らない。力で従わせようともしない。
タカは、
母親である日向真奈美は無期懲役刑であり、
帰ってこないと告げる。そして言う。
「俺たち、みんなひとりだ」
親に捨てられた者。
親から虐待された者。
親が犯罪者である者。
過去は違っても、
自分たちは皆、親が作った物語の中で傷ついてきた。
それでも、自分の人生を選び直すことはできる。
タカは、自分が室井から受け取ったものを、
杏へ渡そうとしたのではないか。
室井は、子どもたちに答えを教え込まなかった。
しかし、室井に育てられたタカは、
杏の孤独を受け止める言葉を持つようになった。
室井が子どもたちへ残したものは、
ここに表れている。
室井本人が誰かを救うだけではない。
室井から受け取ったものを、
子どもが別の子どもへ手渡していく。
その連鎖こそが、この物語の大切な部分だと思う。
事件に慣れていない土地
室井家のほど近くから遺体が見つかる。
遺体は、
『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』
の犯行に関与していた人物だった。
刑務所を出た後は、特殊詐欺に手を染めており、
日向真奈美の信者でもあったことが分かっていく。
東京で起きた事件が、
時間を越えて秋田へつながる。
ただ、舞台となる地域は、
事件に慣れた湾岸署とは違う。
地元の乃木巡査も、
遺体発見後の初動や関係機関への連絡に慣れていない。
村の人々も、
事件が起きたことで疑心暗鬼になっていく。
静かだった地域へ警察が入り、
報道が集まり、人間関係の均衡が崩れる。
室井への不満も噴き出す。
事件は、遺体だけを持ち込んだのではない。
村の中にあった不安や偏見、よそ者への警戒心まで、
表へ引きずり出した。
新城賢太郎との再会
秋田県警の捜査員に半ば強制的に連れて行かれた室井は、
新城賢太郎と再会する。
新城は、かつて室井と同じ本店側にいた人物だった。
初めて登場した頃の新城は、
所轄を軽視する官僚として描かれていた。
しかし、新城もまた、
青島や室井と関わる中で変わっていった。
秋田で再会した新城は、
もはや単なる本店の代弁者ではない。
沖田仁美は、
室井のために秋田県警本部長の席を用意していた。
「最後の花道」だ。
かつての室井なら、
その席を選んだかもしれない。
しかし、室井は辞退する。
そして、警察を退職する。
室井は、組織の中で上へ行くことを諦めたのだろうか。
そうは思わない。
室井は、何を守るために上へ行こうとしていたのかを、
もう一度選び直したのだと思う。
室井は、被害者遺族の子ども達の
里親になることを選んだ。
そして、室井が辞退した
秋田県警本部長の席には、新城が就く。
室井が一人で組織を変えられなかったとしても、
その考えを受け取った人間は残っている。
室井の役割を、誰かがそのまま引き継ぐわけではない。
だが、青島が室井を変え、
室井が新城や沖田に影響を与えたように、
人は人を変えていく。
室井は、改革に失敗したのか
『室井慎次 敗れざる者/生き続ける者』は、
室井の人生を「失敗」として
締めくくってはいない。
タカが、自分の未来を選べるようにすること。
リクが、自分から学校へ行くと言えるようにすること。
杏が、母親とは違う人生を選べる可能性を残すこと。
子どもたちに、帰る場所を作ること。
それは、警察官時代の室井が目指した改革より、
小さく見えるかもしれない。
だが、当事者にとっては、小さなことではない。
室井が最後に守ったのは、
組織全体ではなく、
目の前にいる子どもたちだった。
それは、青島が室井へ突きつけ続けた「現場」の意味へ、
室井なりにたどり着いた姿ではないだろうか。

「杏姉ちゃん!」── 家族になった瞬間
児童相談所の車に乗せられたリクは、
離れていく室井家を振り返り、
「杏姉ちゃん!」と叫ぶ。
リクが呼んだのは、室井でもタカでもない。
杏の名前だけだった。
その呼び方から、杏が彼にとって、
すでに同居している少女ではなく、
本当の姉に近い存在になっていたことが伝わってくる。
杏は、その声を聞いて車を追いかける。
これまでの杏は、
母・日向真奈美の影を背負い、
相手を試すような言動を繰り返していた。
けれど、このときの表情には、
誰かを思いやる慈悲に満ちている。
リクから「姉」として求められたことで、
杏は、自分が誰かに必要とされていることを
知ったのではないか。
守られることを十分に知らなかった少女が、
今度は誰かを守りたいと思う。
杏はリクによって、
人間らしさを取り戻したというより、
自分の中にまだ残っていた優しさを見つけたように見える。
室井が子どもたちに残したものは、
タカ、リク、杏が
互いを家族のように思える場所をつくったこと。
リクが杏を「杏姉ちゃん」と呼び、
杏がその声に応えて走った瞬間、
室井の志は、人と人との間で生き始めていた。
「子どもを守りたい」と願うだけでは、守れない制度の壁
ときは、少しさかのぼる。
児童相談所の職員は、室井にこう告げる。
「室井さん、自分のほうが適正だと思っていませんか? 父親として。でも、本当のお父さんはあの方です」
だが、本当の父親とは、
血がつながっている者のことだけをいうのだろうか。
里親である室井には、
国から養育費が支給されていた。
しかし室井は、その金に手を付けず、
タカ、リク、杏、それぞれのために残していた。
そして村人の一人に、三つの通帳を託す。
「私に何かあったら、これを子どもたちに渡してやってください」
実父のもとへ戻されたリクは、
朝に室井家を離れたその日の夜中、
傷だらけになって戻ってくる。
リクは父親から度重なる暴力を受けている。
さらに、リクを奪い返しに来た際に父親は、
「リクは俺のもんだ。欲しいならいくらで買うんだ」と口にする。
子どもを一人の人間ではなく、
「自分の所有物」と考え、
金で取引しようとする父親。
それに対して室井は、
自分がいなくなったあとの子どもたちの生活まで考え、
与えられた金を一円も自分のものにしようとはしなかった。
実父は、血縁を理由にリクを自分のものだと主張した。
室井は、血縁がなくても、子どもたちの未来を守ろうとした。
どちらが本当の父親だったのか。
リクの実父は、かつて強盗事件を起こし、6年間服役した。
アパートで一人倒れているところを警察に発見されたリクは、
その後、保護へつながった。
リクの監護について、児童相談所には、
実父への返還以外の選択肢もあった。
一時保護、里親委託の継続、
そして必要に応じた親権停止・親権喪失の申立て。
もちろん、作中で児童相談所が
虐待の事実を把握していたのかは明確ではない。
しかし、少なくともリクの置かれた状況を考えれば、
実父への返還を当然の結論として扱うことには、大きな疑問が残る。
それでも児童相談所は、
血がつながっているという一点をもって、
「本当のお父さんはあの方です」と室井に言い渡した。
室井はその場では何も言い返せなかった。
だが、三つの通帳と、
「私に何かあったら」という言葉が、
室井に代わって答えている。
このとき室井は、
すでに狭心症の薬を服用していた。
自らの死期を悟っていたとまでは断定できない。
それでも、自分がいつまでも
子どもたちのそばにいられるとは
考えていなかったのだろう。
だから室井は、自分がいなくなったあとにも、
子どもたちを守れる形を残そうとした。
室井慎次は、死の直前に父親になったのではない。
すでにずっと、父親として生きていたのである。

室井亡き後、エンディングでは、
タカとリクが、
村で牧場を営む夫婦と食卓を囲んでいる姿が描かれる。
杏もまた、村で唯一の商店に立ち、
店主のおばさんとともに働いている。
彼らは、再び孤独へ戻ったのではない。
村の中に居場所を持ち、
誰かと食卓を囲み、働きながら生きている。
「敗れざる者」とは誰か
室井は、組織の壁に阻まれ、警察を去った。
その意味では、敗れたようにも見える。
だが、「敗れざる者」とは、
勝った者というより、
最後まで自分の信念を失わなかった者という意味だと思う。
「生き続ける者」とは誰か
室井は、雪の中で命を落とす。
その結末は、あまりにも静かで、
あまりにも重い。
青島と再会し、
二人で新しい未来へ進む姿を期待していた人にとって、
受け入れがたい結末でもある。
だが、タイトルは『生き続ける者』である。
タカが生き続ける。
リクが生き続ける。
杏が生き続ける。
新城や沖田が、それぞれの場所で生き続ける。
室井から受け取ったものを抱えた人々が、
その先を生きていく。
そして、室井慎次という人物を見届けた私たちの中へ。
その約束は、形を変えながら、生き続けている。
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